人はなぜ「美しい」がわかるのか 橋本治 ちくま新書(ISBN:4480059776)

出刊されて間もなく読んだものの再読です。
改めて読んで思ったのは、どこに焦点を絞って読んだらいいのかが難しいなぁということだった。ちゃんと一つずつ追いかけないと、結局筆者が一番力点を置いていたポイントが見えなくなりそう(という今も、よくわかっていないのだが。だからこそ見直すのだけど)。
まず重要なのは、「豊かな人間関係の欠落に気付くことが、人の美的感受性を育てる。」という著述(P174)と、「個の中に社会建設の方向性はあるーあらねばならない」(P258)という著述のリンクだと思う。本当に著者が重要視しているのは、このライン(レベル)の「『美しい』がわかる」だろう。
一方で「ありとあらゆるものは、ありとあらゆるものであるがゆえに美しい」という言い方もしている。この場合、「『美しい』がわかる」のレベルでどうなのかはわからないが、単に「美しい」という点で言ったら、レベルとしては上段と同じところにあると思う。
同じなのに、美しさを捉える姿勢が全然違う…。上段では、積極的に美しいを求める姿勢があるのに、下段では「ただそこにあるもの」としてしか捉えられない。それなのに、なぜ同じレベルで考えて良いのか?
下段でいう美の広がりは、常にこの世の中に存在している…。本来的には、それはただ存在しているだけで、別に美しい云々という概念は関係ない。それを「美しい」とするかどうかは、そのときの人の気分だけである。もちろん、それこそが「豊かな人間関係の欠落への気付き」なのだけど。
だから、そういうことがわからないこと「”美しいが分からない社会”が壊れたって、別に嘆く必要もない」は、後半部で述べられている産業社会以降、人は失敗とためらいを無くしてしまい「美しくないもの」を量産するようになってしまった、という主張と通底していると思った。
この辺りから、再度「孤独」という視点から考えてみる。近代以前は、孤独という概念はなかった。そして近代以降に「孤独」という概念ができたからこそ、人間関係の中で「美しいなぁ、でもやるせないなぁ」といった考え方ができる。平安時代においても、思考停止からの美意識の発展はあるだろうが、思考停止のレベルが「『自慢出来る!』という、他に対する万全の優越感」から来るものでは、たいしたことはない。そこから「枕草子」「徒然草」といったところの「美意識」には相当に疑問が出てくる。そのことを著者も書いている(P224)。
ところで、「孤独」という概念は近代以降の概念である。「『美しい』がわからない」人が最近増えているが、どうも”美しい”は「敗北」「孤独」というものと結びついているのではないか?という問題意識が、この本の発端にはある。「”美しい”がわからない」が近代以降の「孤独」の行く末と関係があるからこそ、今後の社会のあり方を筆者は問題にしたくなる。だからこそ、現代までの帰結としては「”美しいが分からない社会”が壊れたって、別に嘆く必要もない」だし、「個の中に社会建設の方向性はあるーあらねばならない」というその方向性と、「”美しい”がわかる」人のもつ根源的な力のかすかな繋がりも見えてくると思う。

いやいやいや

ASIMO第二弾。走ってましたねー。すごいよー。
ホンダの重見主任研究員さん、違うよ、ASIMOの意義は、そうやってみんなに夢を与えているところにあるんだよ。

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自民党の津島税調会長、FRBグリーンスパン議長に似てる!本人も意識してるんだろうかー。その位の大物にはなってもらいたいものだが。

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今週2度目の東京

今回はさすがに余裕があったので、羽田第二ターミナルにも足を伸ばす。
宣伝されているほど大したことはないような…。少し狭いのでは?

まぁ、JAL派の自分としては、こちらのターミナルが広くなることが何より有難いのだけど。

下記、読了済みなので、後ほど感想を書きます。つーか早く書け。次へ次へと行かないで、少しは立ち止まれ。

表現の現場―マチス、北斎、そしてタクボ (講談社現代新書)

偶然の音楽 (新潮文庫)

この本は今読んでいます。非常に興味深し。。。というか。

反戦略的ビジネスのすすめ